2007年09月18日
伊達神社 秋季例大祭
16日は、前日からの雨が止み、絶好の渡御日和でした。
8騎の騎馬武者が先行し、それに2基の御神輿その後に、宮司さん、禰宜さんが
続き、亘理伊達家の20代御当主、そして私「邯鄲のゆめ」が続き、その後ろに、
巫女さん、お供の方達が続くのです。
神社の記録によれば、「明治17年の神輿巡行の時は、騎馬総数は上下甲冑姿、
又は陣羽織姿にて、帯刀の上、300騎を数える。昭和に入って50騎余りあったが
現在は農耕馬も極端に減少した。」とある。
明治17年頃の騎馬行列は、勇壮であったのだろうと、想像することが出来る。
神社に戻って、神輿廻しをする白丁の若者たちの姿を、携帯に納めた。
8騎の騎馬武者が先行し、それに2基の御神輿その後に、宮司さん、禰宜さんが
続き、亘理伊達家の20代御当主、そして私「邯鄲のゆめ」が続き、その後ろに、
巫女さん、お供の方達が続くのです。
神社の記録によれば、「明治17年の神輿巡行の時は、騎馬総数は上下甲冑姿、
又は陣羽織姿にて、帯刀の上、300騎を数える。昭和に入って50騎余りあったが
現在は農耕馬も極端に減少した。」とある。
明治17年頃の騎馬行列は、勇壮であったのだろうと、想像することが出来る。
神社に戻って、神輿廻しをする白丁の若者たちの姿を、携帯に納めた。
この神社は、「明治6年 有珠郡開拓事業の創業の氏神として願いあげの所、
この年認可なる。明治6年願い上げの時は、武将の祖神 武甕槌命・経津主
命と幸御魂命を祭神としていましたが、昭和10年、伊達邦成公と田村顕允公
を配神として、合祀の上、有珠郡開拓の偉業を偲び奉り、永く業績を後世に讃
え、崇敬教範の的と仰ぎ奉る。」との旨が、その由緒書きに記されています。
この年認可なる。明治6年願い上げの時は、武将の祖神 武甕槌命・経津主
命と幸御魂命を祭神としていましたが、昭和10年、伊達邦成公と田村顕允公
を配神として、合祀の上、有珠郡開拓の偉業を偲び奉り、永く業績を後世に讃
え、崇敬教範の的と仰ぎ奉る。」との旨が、その由緒書きに記されています。
Posted by 邯鄲のゆめ at 22:54│Comments(0)
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