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2009年11月05日

庭に咲く花とお隣の柿

Pm11:50過ぎ 庭に出て「タマノカンアオイ」の花を写真に撮る。
花は2個、真横を向いて地面に横たわっている。写真に撮れたのは
その内の一つ。写真左上葉の横に鈴の形をした花がかすかに見える。
  庭に咲く花とお隣の柿
葉の数は現在8枚そのうち2枚が蝕まれて痛々しい。
  庭に咲く花とお隣の柿
アジサイ「墨田の花火」が咲いていた。
遅咲きだったので、昨日の雪と寒さで、かなり痛んでいる。
(此れは昨年墨田区に移り住んでいる息子が贈ってくれた鉢物を
地植えしたもの)
  庭に咲く花とお隣の柿
お隣のおうちの庭の柿の木の葉も、昨日の雪で落ちたのだろうか、
木の下は一杯の落ち葉だ。柿木にはたわわに柿の実がなっている。
  庭に咲く花とお隣の柿
未だ 渋いのだろう、小鳥が啄ばんだ気配がない。
伊達市は柿のなる街なのです!


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Posted by 邯鄲のゆめ at 22:22│Comments(10)実りの秋_1
この記事へのコメント
邯鄲のゆめ様
 
こんばんは。
今の時期に 地植えのアジサイが咲いているのですね。
普通アジサイが咲くのは 北海道なら7月頃かなと
私は思っていましたが。
「墨田の花火」は割りに新しい品種だと思いましたが、
可愛らしく開いて人気がありますね。

それと、知らないのは私ばかりかもしれませんが、
伊達では 『柿』がなるのですね!
私は、北海道では柿がならないとずっと思いこんでいました。
今では大昔ですが、高校の修学旅行で関西に行った時、
バスの窓に柿の枝がのびて来て、全員が「あっ、柿だ柿だ」と珍しくて大騒ぎした事がありました。
伊達は温暖な気候なので昔からなっていたのでしょうか。

妙法寺のコピーが遅れています。もう少しお待ちください。

  
Posted by だて at 2009年11月06日 20:21
だてーことに 様

昨年地植えした「墨田の花火」今年は咲かないのかと諦めていた所、
一枝だけ、この寒い時期に咲いていました。不思議です。

柿の実が実る街として、伊達市は売り出しています。
確か、長和の小学校では、以前から柿の実が、実るという事を聞いて
いました。今では、街路樹として、柿の木を植えています。
内地の柿のように美味しいとは、思えませんが、焼酎に漬けるとか、
皮を剥いて干し柿にするようです。
浦島太郎の私はあまり詳しくは有りません。

妙心寺の件のコピーは、「いろはの会」の方たちも楽しみにしており
ます。
よろしくお願い致します。
Posted by 邯鄲のゆめ at 2009年11月06日 20:59
邯鄲のゆめさま

お早うございます!
ご無沙汰お許しを・・・<(_ _)> 

久しぶりで訪れた伊達の風景はやはり温暖ですね。
紫陽花がまだ花をつけ柿の実もたわわ?

札幌も柿の実が生ったと新聞に出るくらいなのですが
これからは伊達産の柿も出荷される日も近いですね。

小鳥は渋さが解るのでしょうか?(笑)

私が子供の頃、果物屋さんで買った柿の中には幾つかは
渋柿が入っていました。
今でも渋柿に当たって口の中がギシギシ言った感触は
忘れられません。
今になると懐かしい思い出です!(笑)
Posted by クッキーママ at 2009年11月23日 09:54
クッキーママ様

おばんで御座います。このことばは、久しく忘れていたことばです。

見事に実ったお隣の柿、あの後、どうなったか
確かめていません。明日、お隣へ行って見て来よう
と思います。

今日は、伊達市黄金町の黄金貝塚の近くで、「黄金開拓之碑」の除幕式
があり、参列して参りました。
実は、黄金にある高橋農場は、旧田村牧場だったのですが、資金繰り

が立ち行かなくなり、斉藤実氏の仲立ちで明治42年、後に総理大臣も
遣られた高橋是清公に、譲渡したのです。
其の後の黄金の発展に大きく寄与されたそのお孫さんの高橋賢一さん
と私の曽祖父を顕彰した碑として、斉藤芳信さんが発起人となり、
建立されたのです。
除幕の後、あいさつしたのですが、話そうと思っていたことの、半
分しか話せませんでした。
Posted by 邯鄲のゆめ at 2009年11月25日 00:00
邯鄲のゆめさま

おめでとうございます。
ご挨拶の時、万感胸に迫り来るものがおありだった事でしょう。
Posted by クッキーママ at 2009年11月26日 02:38
時々 TrackBackもチェック、整理が必要では?
Posted by asahi at 2009年11月26日 09:37
asahiさま ご忠告ありがとう御座います。

今まであまり気にとめていなかったのです。
今後、受け付けないようにしました。
Posted by 邯鄲のゆめ at 2009年11月26日 14:52
クッキーママ様 ありがとう御座います。

「黄金開拓之碑」除幕式が、盛大だったので、驚きました。
また、曽祖父の功績を記した碑が永く残ることを考えると万感胸に迫
リ来るものを感じずには居られませんでした。
多分、高橋賢一様のお子様達も同じ気持ちに成られたのではないかと
思いました。

ところで、お隣の柿の実は、全部枝から無くなっていました。
外のお家の柿木には未だ実が付いているので、おもぎになったのでは!
Posted by 邯鄲のゆめ at 2009年11月26日 15:11
邯鄲のゆめ様

「亘理常盤田村家」の初代はどなたですか?
常盤新九郎(田村顕充)様は北海道に移住等に果たした重要な役割でよく知られていますが、初代からこの九代までは公開されていますよね?公人ですものね。

どの時代のご先祖様も 藩公の為藩の為に降りかかる火の粉をまともに浴びても怯む事無く家臣としての役目を果たされた立派な家系だと思います。

戊辰戦争の後が結局一番大変な知恵の出しどころだったという事でしょうか?
藩の為、藩公の為、家臣とその家族の為。

今までも 立派に評価されていますが、更に今回 碑を建てて顕彰して頂いたことは共に開拓に頑張られた方々皆さんの喜びですね。
おめでとうございます。
Posted by だてーことに at 2009年12月02日 10:21
だてーことにさま

こんばんは
お祝いの御言葉ありがとう御座います。

元々は、田村義顯を祖とする一族なのですが、
亘理常盤家の初代としているのは、

叔父の田村隆顯から福島県田村郡の常盤郷を戴いたことから常盤
を姓とした常盤左馬之助(実定の曽祖父)を常盤家の初代とすべき
なのでしょうが、常盤勝定の代に田村清顯が死去して、家臣たちが
四散し、伊達成実公に孫の隼人が17歳で出仕して、家臣となり、
成実公の一字の実を戴いて常盤実定を名乗ります。
実定は、常に成実公と共に行動し、成実公の出奔時も傍に仕えており
ました。
私達は成実公に仕えたこの実定を亘理常盤家としての初代としている
のです。
この後、実定は、祖父の勝定、父の信定を亘理に呼んでおり、彼ら
は成実公の客分として迎えられたと家系図に書かれています。
「原田甲斐の2000両借用時」御袖印に関わった玄入は実定の嫡男
で内蔵助は実定の孫にあたります。
Posted by 邯鄲のゆめ at 2009年12月03日 21:07
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