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2007年08月25日

松本十郎大判官と私の曽祖父

麻布学園の谷口先生が、文化研究所に文献を見に来られたのがきっかけで
我が家の文書を引っ掻き回して探したのです。

実は昨年のリホームでどのダンボール箱に何を何処にしまったのか判らなく
なってる我が家の文書なのです、目的のものは未だ見つからないのですが、
探している箱の中から、30年前に、松本大判官のお孫さんから私の父へ宛
てた書簡が出てきたのです。(葉書の細かな字でびっしりと書かれています。)

その文面には

【お祖父様顕允翁と祖父十郎とは東北の昔の賊軍同士というわけばかりでは
なく、何か気質が合ったわけか開拓使時代に仲がよかった由、明治何年か
に顕允翁が祖父十郎を訪ねられた時は久方のこともあってなにほど喜んだ
ものか事の由を随筆空語集の何巻目かに詳しく書きしるしています。】

と書かれていました。
そのことを伊達市の開拓記念館の解説員の方にお話すると、数年前に
「松本十郎を顕彰する会」の方たちが伊達市の開拓記念館を訪れ、
「松本十郎-頌徳碑の栞」を置いて行かれたとのこと。早速それを見せて
戴く。
大判官当時(30歳代)の写真が載っている。

   松本十郎大判官と私の曽祖父 「松本十郎-頌徳碑の栞」から、コピーさせて頂きました。

「松本十郎-頌徳碑の栞」を読むと
松本十郎は開拓使の基礎を造った名判官と言っても過言ではないようです。
(漁業の振興、農地の開拓、膨大な赤字の解消、病院・学校の開設(札幌農
学校もこの大判官が建てた)、特にアイヌと言えども日本の国民なりとその
擁護に勤め、巡視の折、土下座して迎える人々に「今は誰も彼も平等だ仕事
が分かれているだけだと言って土下座などはさせず、誰にも「さん」をつけて
呼び、決して呼び捨てにすることは無かったと言います。)

樺太アイヌ人の人たちを故郷に近い宗谷近くに住まわせ、希望を取り入
れるように添え書きしたのに、江別に強制的に連行し移住させた事を聞き、
「わが事終われり」「アイヌの人たちとの約束を果たさずに何の面目あって
人にまみゆるを得んや」と多年に亙り恩恵を受けた黒田長官に感謝の意を
添えた辞表を提出し帰郷したという。

私の曽祖父顕允は村の開拓が順調に進み安定した頃、中央に出て来る様にと
住まいまで用意しての誘いを
 【北海道開拓に連れて来た人たちへの責任がある】
と言って断ったと聞いています。

松本十郎と我が曽祖父 何か通じるものがあったと私は思いました。


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Posted by 邯鄲のゆめ at 21:55│Comments(2)北海道開拓
この記事へのコメント
 こんにちは。

 「アイヌと言えども日本の国民なりと」
 よいセリフですね。差別意識が強い当時にしては、異端児だったでしょう。自由とか、平等とかの思想がなかった時代、みずからその境地まで辿り着いたわけですから。
 現代で市民活動をしてもらいたいくらいです(^^;
Posted by ayappi at 2007年09月20日 09:22
ayappiさま おはようございます。

松本十郎翁は、
「深くアイヌの人々を愛し、日本国民として差別することなく処遇し、
アイヌの織物(アツシ)を着用して、道内を巡視し、アツシ判官と
称されて道民に深く慕われた。」
「鶴岡に帰った十郎は再び官には就かず、功を人に語ることを好
まず晴耕雨読の自適の生活に入った。しかし官を辞しても十郎の
名は全国に聞こえていた。」
と、松本十郎頌徳碑の栞に紹介されています。

現在の政治家・官僚には無いタイプの松本十郎翁、今の世に生き
ていれば、どのような活躍をしていたのでしょうね?
Posted by 邯鄲のゆめ at 2007年09月20日 10:48
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    コメント(2)