さぽろぐ

日記・一般  |その他の都道府県・海外

ログインヘルプ


2008年10月26日

当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に

一昨昨日(10月23日)、当別町歴史ボランティアの方達が伊達市
開拓記念館に来られた。

今月の11日に、私達が、当別町の伊達邸別館・当別伊達記念館
を訪問した時に、当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記
念館を訪問すると聞いていたので、朝からそわそわしていた。
Pm2:00頃来られるとの情報だったので、約1時間前に、迎賓館
に行く。

現在の迎賓館 当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に 

下は、迎賓館として使われていた当時
の建物の写真(迎賓館内にある)
          当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に 

  迎賓館には、既に「くわの会」の岩木さん、酒井さん等が、来ていて
当別町歴史ボランティアの方達が来るのを待っていた。
そうこうする内に、岡田さんが来て今日の交流会は、応接室で椅子
に腰掛けてが良いだろうということになり、控え室にあった椅子を応
接室に運び入れる。
笠原さん、高野会長、菅さん、矢部さんと揃い、東京へ出張していた
黒田学芸員が、今着いた所と言いながら駆けつける。

Pm2:20頃に、到着され、先に開拓記念館を観覧した後で、迎賓館
の方に、来られるとのことなので、私は「くわの会」の方達と迎賓館で
待機お待ちする事とした。

伊達邦成公の銅像・田村顕允翁の胸像がある芝生庭園から、10名
程の方達が、記念館方面に向かわれている。

伊達市開拓記念館 当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に
  当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に
 伊達市開拓記念館での、観覧を終えられた
 当別町歴史ボランティアの方達が、迎賓館へ
 来られる。
 早速、坂田さんに、先日の当別町を訪れた時
 のお礼を述べる。
 
当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に  岡田さんが、応接室で迎賓館の説明をし、
 迎賓館の 中を、見て頂いた後、この場で、
 交流会を始めましょうとお話しする。
 


 続いて、「くわの会」の方達が館内を案内する。
当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に





私は、当別伊達記念館で、説明をして頂いた菊池さんを、案内。
 
当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に 館内を観られた後、岡田さんの挨拶で、交
 流会に入る。其の後の司会は、黒田学芸員
 が勤める。
 最初に「くわの会」の高野会長が挨拶、その
 後、当別町歴史ボランティアの会の久保さんが
 挨拶をされた。
当別町からは、当別町歴史ボランティアの方達の他に教育委員会
社会教育課 課長の出口さん、主事の下村さんが出席されてた。
この後は、出席者の方達の自己紹介となった。
当別町歴史ボランティアは「くわの会」よりは始まってから、日が浅い
ので、「くわの会」のボランティア活動を参考にしたいと言われていた。

私が、一番驚いたのは坂田資宏さんだった
  開拓当時の古文書を解読されて、多数の本を出されている。
 伊達市には20回以上みえられている。
 更に伊達市の町名を読んだ佐藤助三郎脩亮の歌碑が建てられる度に
  伊達市 を訪れていたと聞き2度吃驚。

15:50この交流会を終えた。
当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に 迎賓館の前で、記念写真を撮る。




 当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に
 私は名残惜しくて、伊達歴史の杜 道の駅
 まで、見送りに。
 次はいつお会いできるのだろうか。 
 


石狩当別を開拓した岩出山伊達家の伊達邦直公そして有珠郡を開
拓した亘理伊達家の伊達邦成公、兄弟で北海道開拓に其の人生を
ささげ、度々邦成公は兄邦直公の当別を訪れている。
これからも、当別町と伊達市の交流が途絶えることなく、続くことを
願っています。

今回、坂田資宏さんから、出版されている本(坂田資宏著)を多数
戴きました。有難う御座いました。お礼申し上げます。



 
   


あなたにおススメの記事

同じカテゴリー(北海道開拓)の記事画像
松本十郎大判官と私の曽祖父
同じカテゴリー(北海道開拓)の記事
 弐年前の「伊達ライオンズクラブの総会」をふり返って (2014-03-26 10:29)
 松本十郎大判官と私の曽祖父 (2007-08-25 21:55)

Posted by 邯鄲のゆめ at 23:31│Comments(11)北海道開拓
この記事へのコメント
邯鄲のゆめ様

当別町の方々との伊達記念館での交流を 写真をじっくり見ながら
読ませて頂きました。
皆さんが今もこうして活動されているのを拝見して、本当に歴史の事実として
仙台からの移住があったのだと 感じました。


私個人としては 最近段々「伊達」の深みにはまりまして
この際出来るところ迄の家系図を作ろうかと 戸籍を集めています。
黒野家から佐野家を継いだ 祖父佐野清正は、母からは
伊達邦成公のお子様かどなたかの お勉強のお相手であったと
聞かされていました。
佐野源吉の跡を継いだとありますが、もしかしてその通称(?)は
何代目かの『佐野臨太夫」ではないかと思ったりしています。
まだ よく分かりません。
昔伊達のお墓参りをした時、「佐野臨太夫」もあった様な気がします。
「佐野清正」の紋は 「竪三つ引き両」でこの紋は 伊達さんから頂いた、
と聞きました。
佐野家は学問の先生であったという話でしたが、はっきりした事は
分かりません。
今 手元には無いのですが、古文書に 「御黒印」や戦の布陣の様子
らしき物があったと思います。家譜略記には「寛文九年」というのも
見えます。

祖母 佐野サトの父は 明治八年五月に屯田兵として 琴似に入植した
真柳六蔵です。亘理郡小堤村出身となっています。
一度 亘理から有珠に入り、そこから明治八年に琴似に
移ったのでしょうか。

佐野家は 明治十八年に一度士族復帰していますが、琴似に入った
もともとの士族の方々も 同じ時に士族復帰したのでしょうね。私には
分かりませんが。


琴似の入植は 亘理藩と会津藩の方が中心ですが、
伊達は当然 「伊達邦成公」主従で、
どちらも 戊辰戦争の結果が 今に繋がっているのだと
私は、今頃になって 分かりました。
今まで 日本の歴史には全く興味が無かったものが
急に身近に迫って来ました。

ふと自分のルーツを振り返ってみると 長い歴史につながり
興味深いものになって来ました。

伊達迄は なかなか行かれませんが、いつか訪問できれば、と
思っております。
Posted by だてーことに at 2008年11月04日 22:20
だてーことに 様
石狩当別へは伊達邦直(兄)主従が有珠郡へは、伊達邦成(弟)主従が
移住し、武士の対面を持ちながら北海道に新天地を求め開拓に励んだのです。
その後、数十年間、有珠郡の伊達市と石狩当別とは、交流が途絶えていた
ようですが、近年になって又交流が始まったと聞いています。この交流が、
今後も続くよう努力し、お互いの情報交換が長く続けば良いなと思っています。

さて、佐野清正さんのことですが、先日書いた処に、間違いがあることに気付
きました。
佐野家は、佐野重定が仙台本藩の伊達家家臣で大番組でしたが、伊達成実
公に実子が無く、後継ぎとして伊達政宗公の九男の宗実公が、入嗣されたお
り、召し連れられて、亘理伊達家の家臣となります。この佐野重定の4男が、
佐野久三郎です。
亘理世臣家譜略記と松下昌靖さんの書き込みによれば
久三郎―重良(臨太夫)―重指(市郎左衛門)―保蔵(市郎左衛門)-
保仙(市郎左衛門)―臨太夫―清正(黒野時中の3男)―源吉
と成るようです。
従って源吉さんは、佐野清正さんのお子さんだと思います。
このうち多分、久三郎の代に、伊達騒動の原田甲斐に巻き込まれ、我が家
の先祖と同様、半地召し上げの憂き目を見たようです。
佐野サト様の父上の真柳六蔵さんについては、今の私の処では、判りません。
真柳幸之進という方が明治6年春に松ヶ枝丁に入植、その後、移られている
のですが、何処へ移られたかは、今の時点では判りません。
士族復帰に関しては、亘理伊達家の家臣団では明治18年ですが、
屯田兵として、入られた方達のことは、御免なさい、私の所に資料が無いの
で現時点では判りません。調べてみましょう。

伊達市は、北の湘南と呼ばれ、気候が温暖と言う事もあり、スローライフに
入られた方達が、引越されて来ています。北海道では札幌以外で、人口の
増えてる街(年配者が多い)です。

いつの日か、伊達市を訪ねてみて下さい、お待ちしております。
Posted by 邯鄲のゆめ at 2008年11月05日 23:06
邯鄲のゆめ様

いろいろお手数をお掛けします。
お陰様で私には分からなかったことが、出て来て驚いています。
面倒な事をお調べ頂きまして有難うございます。

佐野家の代数等ですが、少し違っている様に思います。
私が分かるのは、嘉永2年巳酉 (1849) 佐野臨太夫 畏保 記の
佐野家の 「家譜略記」によるものです。
(これを30年以上前に写真に撮りましたが 見方も内容もよくわかりません
でしたので 全体を撮りきれていないので分からないところがあるのです。)

初代 佐野 勘解由(?)  重定
二代     休三郎 (久三郎のことでしょう 他のものはそうなっています)
三代     臨太夫    重良
四代     市郎左衛門 重指
五代     市郎左衛門 保蔵
六代     市郎左衛門 保仙
七代     玄昌      保高
  ( この後がよくみえない)

  臨太夫  1708年 宝永5年の文書があり
         1849年 嘉永2年にこの家譜が書かれ
         1885年 明治18年に士族編入を受けたのも
                佐野臨太夫です
  謄本によって1893年明治26年源吉の跡を清正が継いでいます

     それで 明治の臨太夫は源吉だと思うのです。
  長々と書いてしまいましたが、簡単のゆめ様のお陰で見かたの
  整理が少し付く様になりました。
  何も分からないまま ご多忙な邯鄲のゆめ様を頼りにして
  進んで来まして ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。
  何かヒントがあるようでしたら宜しくお願いします。

   本当に有難うございました。   
Posted by だてーことに at 2008年11月07日 23:48
だてーことに 様 こんにちは

昨晩、書きこみを頂き、謎が解けました。
「亘理世臣家譜略記」は、亘理伊達家12代邑主宗恒公の師として、
講学の傍らに編集を行った常盤貴定が書き残したもので、文政辛巳
孟夏朔(1821年孟夏朔)と記されています。
第一回の開拓は明治3年4月そして、明治5年に開拓移住者の家族
構成が調べられているので、それまでの間は、各家に残る家系図が
頼りなのです。
地元に其の子孫の方が残っていれば調べることは容易なのですが、
聞き伝えなどでは、正確に伝わらない事が今回の事で良く判りました。

初代 佐野 勘解由    重定
二代     休三郎    某  (亘理世臣家譜略記では久三郎と表記)
三代     臨太夫    重良
四代     市郎左衛門 重指
五代     市郎左衛門 保蔵
六代     市郎左衛門 保仙 
七代     玄昌      保高
八代     臨太夫     源吉
九代              清正(黒野時中3男入嗣)

亘理世臣家譜略記では六代の保仙氏までが記載されています。
私の持っている資料に

七代     玄昌      保高
八代     臨太夫     源吉
九代              清正(黒野時中3男入嗣)

このように書き加えたいと思います。
幼名、通称と名前、諱等があり、昔の方は同じ通称を使うので、
諱が判らない不明の時は「某」と書いてあります。

亘理世臣家譜略記には家臣364家の名前が記されていますが
佐野家は、亘理伊達家の中で、家格17番目、休三郎氏の兄の
本家は家格15番目と共に亘理伊達家の家臣の中で、「お客之間
着座」という上位に位置する名家です。

亘理町史上巻(P611)によれば琴似に入植された亘理出身者の
中に真柳六蔵氏は亘理郡鹿島村と書かれていました。
私の方も、判らない事が一杯あります。

「邯鄲のゆめ」へのメールのところで「メッセージを送る」と言う所から
メールを送って下さっても良いと思います。

これからも宜しくお願い致します。
Posted by 邯鄲のゆめ at 2008年11月08日 12:32
邯鄲のゆめ様

度々申し訳ありません。
佐野の 代数について。
前回の通しで見ますと、嘉永2年、1849年、臨太夫 畏保 書いた
本人が 飛んでしまっていると思います。
八代 臨太夫 畏保
九代 臨太夫 源吉
十代       清正
             になるでしょうか。
Posted by だてーことに at 2008年11月09日 09:40
だてーことに 様  こんばんは

今日は、伊達市観光協会の黎明観の中にある刀鍛冶工房で、「ふいご祭り」
がありましたので出席、玉串奉奠して参りました。

訂正いただき有難う御座います、早速、伊達市開拓記念館所有の「亘理世臣
家譜略記」の家格17番目の佐野家の七代以降に手書きですが

七代  玄昌   保高
八代  臨太夫  畏保
九代  臨太夫  源吉
十代        清正(黒野時中3男入嗣)

を追加しようと思います。
だてーことに様からの私のブログへの書込みにより、「亘理世臣家譜略記」と
清正氏(私にとっての大叔父)との間の空白を埋める事が出来た事、大変嬉
しく思うと共に、だてーことに様に感謝致します。
Posted by 邯鄲のゆめ at 2008年11月09日 23:00
邯鄲のゆめ様

私の方こそ丁寧に細かに対応いただき ありがとうございました。
一つ確認ですが、二代は 久三郎ということです。
元禄八年乙亥の公文書らしきものは久三郎となっており、
今回の家譜の隣のページの
過去帳風に見えるものの中にも久三郎の文字があります。
ついでに書きますと
文政9年 但野通安 男
六代 市郎左衛門  保仙

天(?)保五(?)年遊佐左(細かくて読み辛い字)右門 男
玄昌  保高
           他が記載されています

手元の物で分かる古文書の一番古いのは、
寛文九年(1632)11月11日 佐野勘解由の書いた物では
ないかと思います。

邯鄲のゆめ様のブログに辿り着いたお陰で 私も思いがけず内容が
正しく分かり、邯鄲のゆめ様のお心遣いに感謝いたします。

     PS  「メッセージをおくる」は届かないものでしょうか
Posted by だてーことに at 2008年11月10日 08:36
だてーことに 様 お早う御座います

だてーことに 様文書          亘理世臣家譜略記

文政9年 但野通安 男        只野春安の子               
六代 市郎左衛門  保仙       市郎左衛門  保仙

***************

次の玄昌  保高 氏については

「左」「右」「門」の付く名のあるのは遊佐左藤右衛門後内蔵
を祖とする家格21番目の遊佐家なので

天保五甲午年(天保は14年まで) 遊佐左藤右衛門 男
玄昌  保高

と解釈してみました。

「邯鄲のゆめのチャンネル」のオーナーつまり私へメッセージ
を送る場合は

「メッセージを送る」をクリックすると
オーナーへメッセージを送るという画面が現れますので

「お名前」
「メールアドレス」
「件名」
「メッセージ」

の順に書込み「画像認証」の認証文字を入力して、「確認」
を押して「送信」すれば、私の所に、お書きになった
お名前・メールアドレス・件名・メッセージ
が届きます。

これは私が、実際に先ほど確認致しました。

今までのことを総合すると:
 多分、私と「だてーことに」様は マタイトコ になるのかなと
 思います。

これからも宜しくお願い致します。
Posted by 邯鄲のゆめ at 2008年11月10日 11:51
邯鄲のゆめ様

そうそう 字の入力間違いがありました。

正  只野      誤  但野   です

只野通安 男には 見えますが、間違いもあるかも知れません。
母親の生家からの名前も入っているものなのですね。

なるほど  遊佐 佐藤右エ門  男 となっているようにも見えます。

全く 日本の戸籍簿は すごいものですね。

 先ほど二度目の メールを送ってみましたが届くのでしょうか
Posted by だてーことに at 2008年11月10日 15:23
邯鄲のゆめ様
さらに 誤入力しまして。

遊佐 左藤右エ門  と入れたのです。

あまり熱くなってしまいました。少し休みです。
Posted by だてーことに at 2008年11月10日 15:36
だてーことに様

こんばんは、10月23日のメール届いておりました。
御免なさい見逃していたこと深く深くお詫び申し上げます。
だてーことに様のメールへの返信を致しましたのでお読み下さい。

私「邯鄲のゆめ」も、佐野清正氏の名を、だてーことに様からの書込みで
拝見した時は、伊達市開拓記念館(歩いても10分も掛からない処)に走り、
明治5年の移住者名簿を確認したり、黒野家のご当主に電話でお聞きしたり
で、かなり熱くなったのを覚えています。
今回の事で、だてーことに様のご先祖が見えてきました。
有難う御座います。
Posted by 邯鄲のゆめ at 2008年11月10日 23:01
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
当別町歴史ボランティアの方達が伊達市開拓記念館に
    コメント(11)